Dorian Q Fuller, Emma Harvey, Ling Qin
本論は蒋楽平氏とL.LIU(劉莉)氏の論文への返答として、Dorian Q Fullerらが稲の栽培と栽培化の問題について、改めて野生と栽培化との区別における困難点を提起したものである。東アジアの資料に基づいている。稲が栽培される前に、前栽培化(馴化)期という段階があり、その期間は約五千年前である。
1980年代に岡彦一氏と張慈徳氏が主張した栽培イネの一元起源論は、90年代に生物遺伝学の研究に変えられて、インディカとジャポンニカは違う祖先種から進化してきたことを示した 。こうして、インディカは中国で栽培化する可能性はないため、過去、稲の形態測量により、インディカとジャポンニカの両方が存在したというこれまでの見解は問題である。 以前の形態測量は長さと幅との比値は2.5以上がインディカとされて、2.3以下がジャポンニカとされるが、現代標本に対する測量の結果は、野生稲や他の栽培種が混じっている場合は、その区分値が有効ではない可能性がある。また、稲の熟成度は粒型にも影響する。
作者達は、栽培稲の進化の重要な特徴を述べ、その中に、”成熟粒の脱粒性が無くす”という変化は重要な考古学的現象を手がかりとして残るかもしれない。それは、未熟粒の採集比率の変化ということである。
このことを基礎として、作者達は、あらためて長江流域の先史稲の資料を検討した結果、つまり、野生食用植物の栽培は河姆渡時期からはじまり、栽培稲の進化は4000年前から展開することを示す。こうして、先史稲の考古学資料というと、跨湖橋・上山などは野生稲の採集を示すと想定できる。つまり、非脱粒性稲は1000-1500年間の進化過程をへたと分かる。
また、河姆渡遺跡や跨湖橋遺跡や田螺山遺跡や賈湖遺跡では、実は稲より数多くのドングリが発見された。それは、主食ではなくても、ドングリ類などはやはり重要な意味がある食料資源と考えられる。
本論での論説は、稲の栽培化における仮説を提出するだけではなく、稲作起源に対して解釈する枠組を立てるものである。要するに、過去の研究において、先史稲はすべて栽培種と考えることや栽培化と同等視されてきたことはあらためて検討する必要がある。今後、長期間にわたる変化の動態過程を重視しなければならない。
筆者観点:
考古学での.栽培稲とは、植物分類上の意味もあるし、人為的栽培行為を説明するいみもある。ただ、研究上、この両者は混同することはできない。根本的にいうと、"栽培稲“は現代の稲属の分類の概念である。つまり、先史時代に“栽培稲”型の稲が現れても、必ず農耕や稲作みたい栽培行為の結果とはいえない。
その理由は、植物の進化は、実は、はっきりの段階性で区っきりすることよりも、長いプロセスを経ちながら、変化しつつあることである。本論のなかに提示したように、先史稲は、植物の進化といういみもあるし、人間の行為の進化という意味も含みむ。先史稲の形態変異は何かの綜合体ではなく、進化の段階性を反映するだけである。
台湾では、栽培稲の起源というと、南島民族伝来説が重要な背景で、そのため、出土する稲は当たり前に栽培稲と認められる。ただ、台湾は野生稲の分布区で、先史時代に採集民は野生稲を利用するかどうか実は無視できない問題である。新石器時代早期の稲の変異性は後期より大きいということは、形態測量からわかる。ただ、その意味は、本論の仮説のように、野生種の採集や前栽培期稲の混入などは説明できるか?今の時点ではまだ分からない。しかし、本論の提示により、稲の栽培化プロセスは自然と文化の相互作用の結果といえるが、そのメカニズムは単純化できない。先史稲の正体は、進化中の栽培稲という理解よりも、進化中の人間行動の産物という理解が良いだろう。

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